昔から、手を繋ぐ、という行為が、少しだけ苦手だった。 「手を繋ごう」と誰かが言い出すのは、大抵歩いているとき。 歩いているときは、考え事をしてしまう。考え事をしているから、表情がぼんやりとして、危なげに見えていたのかもしれないと、大人になった今なら思うけれど。考え事をしているからこそ、ひとに触れたくないのに。そんなふうに、わたしは反対のことを思ってしまう。 (ああまた、考え事してる) まだ誰にも踏まれていない雪を踏む。 わたしの歩みに合わせて、さくさく、と規則的な音が鳴る。 少し後ろから、同じ音が、わたしのリズムに重なったり、乱したりしながら、着いてくる。何か、話さなきゃ。 それなのに、上手く言葉が出てこない。 「、 寒くないか」 わたしの気持ちを見透かしたように、後ろから声がかかった。「大丈夫、へいき」と、振り返りもせず、咄嗟に答える。 ほんの数分、無言でいただけなのに、その声に新鮮な愛しさを覚えて、 どきりとしてしまう。 「そうか。ならいい」 本当は、少し寒かった。 さっき、あたたかい飲み物を買ったとき、硬貨を探すのに一瞬手袋を外した。そのとき、落としてしまったのかとにかく今、わたしの右手ははだかのままだった。 もうその紅茶は飲んでしまったし、歩いているのにポケットに手を入れるのは、なんだかはしたなくて。 冷え切ってしまった右手を、反対の手で包むようにして、息を吐いた。 ほどなくして、木々の間に目的の場所が見えてきた。 いつか、ダンテと来たいと思っていた場所。 幼い頃の楽しい記憶の一つ。 母と滑った、天然のスケートリンクだ。 「白鳥はいないんだな」 「冬だもの。あたたかい季節だったら見られるかもしれない。また、春に来たいな」 「もう次の話か?」 振り返ると、今の空の色と同じ、淡い水色の瞳に見つめられていた。ダンテの視線は優しいけれど、声がはしゃいでいたかもしれない。 気にしていないふりをして、ここまで持ってくれていた靴に手を伸ばす。 片足のブーツを脱いで、履き慣れたスケート靴に足を差し入れた。 慌てたせいか、片脚でバランスを取ることに失敗して、ふらりと身体が傾く感覚。 「きゃっ」 「おっと」 彼の腕がすっとお腹に回されて、転ばずに済む。 「腕も借りたくないか」と、ダンテはわたしの頭の上でふっと笑った。 今度は大人しく、彼の手を借りる。 「ダンテも早く来て」 一足早く氷の上に降り立つと、昔に戻ったようだった。 座り込んで靴を替えるダンテのそばを、ゆっくり滑りながら待つ。 昔、母のこともこうやって待っていた。 身勝手だけれど、母と一緒に滑りたいから、ではなかった。 早く滑りたい、 それだけだ。でも、今は違う。 わたしと一緒に、 わたしの好きな場所で、この時 間を共有してほしい。 靴紐を結んでいるから、彼は手元を見ている。 大好きな瞳がこっちを向いていないときは、ちょっとわがままなことを考えたって、許されたい。 (ここに行きたいと言ったとき、すぐに受け入れてくれて、うれしかった) 銀の髪にかかった粉雪を、そっと手ではらう。 離そうとした手を、ダンテはばっと掴んだ。軽やかに立ち上がると、そのまま滑り出す。 両足を動かして氷の上を駆ける彼のスピードにつられて、わたしも頬に清々しい風を感じる。 「ちょっと、早いよ」 「これで怖くないだろ」 腰に大きな手が回されて、体温を感じる距離に引き寄せられる。 「焦らないで。 ゆったり滑るのが好きなの」 もっと二人で話したい。そんな気持ちを込て、右手で背中に触れる。素手で触れた革のコートは冷えていて、自分から、もっとダンテに身を寄せた。 どちらからともなく、二人で、滑りながら減速をかける。なんだか、ダンスを思わせる。 ダンテは、テンポの速い曲の方が好きだ。 わたしはダンテが踊ってくれるのなら、なんだっていい。ただ、速い曲の方が、時が流れるのも早く感じてしまうから。 「これくらい?」 黙って頷く。 スケート靴が、氷の表面を撫ぜる音。わたしの吐息。 ダンテの心音。とても心地が良かった。目を閉じて、身を任せてしまいたい。 湖の真ん中、ごく狭い範囲で、ゆっくり、くるくると回る。 顔を上げると、冬の光を受けた彼の頭の縁が、きらきらとしている。ダンテには、冬が似合う。雪も氷も光も、一際 彼を美しく見せる。 ダンテが、ハミングをわたしのに重ねる。 それで、自分が鼻歌を歌っていたことに気づいた。クラッシックでもなんでもない、ただのスローテンポなラブソング。それでも、あたかもダンスのように、ダンテの元を離れて、くるりとターンをしてみる。一瞬、真っ白な世界がばっと目の前を巡って、わたしにも馴染んだボルドーの前に戻ってくる。 「お嬢さんはスケートもダンスも上手だな」 「唯一、人並みにできるスポーツなの」 ごく自然に、ダンテはわたしの手を握って、ワルツの基本姿勢を取った。 いつの間に手袋を外したのか、彼も素手だ。 わたしのより、ずっとあたたかい手。 わたしの手が冷たいからだ。 (離さなきゃ) そう思うのに、ダンテの目を見たら、びくとも動けない。たとえ彼の熱を奪うことになるとしても、この手を拒絶なんてできない。 こわばったこの手を少し緩めて、指を絡めても許される?なんて、出過ぎたことを考える。 ダンテの手が、わたしの手をゆっくりと、彼の口元に導く。童話の王子様のよう。音もしない、触れるだけのキスが手の甲に落とされる。 「冷えてるな」 「手袋を落としちゃったの」 「知ってるが、こうすればいい」 ついさっき、わたしが考えたように、ダンテの指が私の指の間を割って、ぴったりと密着した。 重ねた状態でもわかるくらい、ダンテの手のひらは大きくて、硬い。 指の一本一本でさえも、 わたしのやわな指とは全く違う。 それも当然で、彼は日頃、この手で、悪魔と戦っているのだ。当然怪我を負うこともあるに違いない。そう思うと、わたしの方こそ、この手にキスをしてあげたい心地にさせられる。 「」 ふいに、ダンテが手を重ねたまま、親指でわたしの唇に触れる。 あつらえたように完璧なタイミングに、一瞬、身を固くしてしまう。 ダンテは答えを求めるように、わたしの目を見据えた。 「手を繋いだら、......心のうちが相手に伝わってしまうかもって、考えちゃうの」 わたしの手を握る指に、きゅっと力が入る。 「こんな風に?」 「だから、手を繋ぐのが、あんまり好きじゃないの。くだらないでしょ」 パッと手を離して、誤魔化すようにダンテに抱きついた。耳を彼の胸板につけて周囲を見ると、わたしたちの滑った軌跡が、湖の上に残っていることに気づく。 「あながち間違ってもないかもな。 おまえの考えてることは、ちゃんとわかってる」 声に笑いが含まれている。面白がってる。頭の後ろでわたしの髪をいじる手も、拗ねた子供をあやすかのようで、首を振って 「やめて」と示す。 「どうしてわかるの」 「さぁな。 だが、俺の考えてることも、おまえならわかるだろ?ニッキー」 「そんなの、いつもわからないわ。それに」 反論しようと思って、顔を上げる。 目があって、また、何も言えなくなる。 ダンテの瞳はずるい。 わたしの心を見透かす、どんな宝石よりも魅惑的な瞳。 「今俺が考えてること、わかるか」 わからない。わからないけれど、少し背伸びして、目を瞑る。わたしたちの身長差では、わたしからはできないこと。 一瞬、瞼の上から感じる光が陰って、また元に戻った。 「ほらな」 「なんのこと?」 「わかってるだろ」 「わからないわ。 今のは、わたしがしてほしいことだったから」 ダンテは大袈裟に肩をすくめてみせる。 「何にせよ、俺に心のうちを隠したって無駄だってことだ」 今度は、自分からダンテの手を握った。これで本当に気持ちが伝わるのならば、もう伝わってしまえ。 そもそも、隠すようなことなんて何もなかったんだから。 「ねぇねぇ、今わたしが考えてること、わかる?」 「キスしてほしいとき、口が少し開いてるぞ。 気づいてなかったか?」 「え?!」