今夜は一人だった。だから気が向いた。 はカウンターの外に出て、店仕舞いの支度をしていた。二ヶ月ぶりというくらい、時が流れていたが、何も変わった様子はない。 「あっ、こんばんは」 「もう終わるところ?」 「はい。でも大丈夫ですよ」 はカウンターを跳ね上げて、いつものように向こう側に立った。私が何か言う前に、彼女の手はもう煙草に伸びている。 「いつものですよね?」 「うん」 煙草を受け取って、お代をカウンターに載せる。それだけの、一分足らずで終わるやりとり。彼女の粉紅色の爪をぼんやりと眺めていれば、用はすぐ済んでしまう。私も帰ったら、爪に入り込んだ他人の血を落とさなければならないな……そんなことを考える。 礼を言って踵を返そうとしたとき、「あのう」だか「そのう」だか、判然としない声でが私を呼び止めた。 「今日は、お疲れみたいですね」 「……そうかな」 「なんとなくですけど」 疲れているという感覚はないが曖昧な返事をする。はほんの少し口角を上げて、すぐに目を逸らした。姪か後輩のように思う。躊躇ってはいるが、私を怖がることはない。 「あの、……また、来てくれますか?」 「……また来るよ」 「っそうですか、」 ややあって、嬉しいです、と続く。私は何も考えたくなくて、買ったばかりの煙草に早速火をつけた。 彼女が働いているのは、大通りから二、三本、いや、もっとだろうか──とにかく、街の華やかな部分とは離れた区画にある、小さな店だ。 公には売れない薬物やら武器やら、その手の類のものを扱う店が軒を連ねる中、なんだか肩身が狭そうな様子の煙草屋。彼女はそこの店番の娘。 この店を知ったのは、偶然だ。女たちの要望で普段と違う道を通った、その日たまたま、この店とを見かけたのだ。 初心そうだと思った。健康そうな身体に、露出の少ない身綺麗なすがた。たちの悪い酔っ払いやちんけな不良が闊歩するこのあたりには、あまり似つかわしくない女だった。 顔が好みで記憶の隅に残っていたのを、後日思い出して立ち寄った。それから度々通って、今まで致ってしまった。 また行くと言ってしまったからか、結局私は一週間後にはまた例の店へ足を向けていた。煙草自体はその間も他所の店で買い足していたが、を見たくなったから。 下水のにおい。厨房のにおい。洗剤のにおい。さまざまものがまざりあった胸の悪くなるようなにおいが、この地域には常に漂っているが、今日はなぜだか、いつもと違う、よく知っている香りが鼻腔を通り抜けた。 顔を上げると、私はもう煙草屋の前に立っている。カウンターの上の灰皿に、殆ど燃え尽きてぐずぐずになった煙草が載っていた。においの元はこれだった。 「、」 カウンターに少し身を乗り出して、奥で座り込んでいたを見下ろした。は床に落ちた煙草の箱の中で、縮こまって座っていた。服装が乱れて、肩が見えている。 「煙草、吸うのか」 「吸ってみようと思ったんですけど、むせてしまって」 そう言ってがかざしてみせたのは、いつも私が買う銘柄だった。 「今日もそれを」 「もう閉めるんです。これで良かったら、差し上げますよ」 「それなら貰うよ」 カウンター越しに伸ばした私の手を、が両手で握った。冷たかった。中腰の姿は、懇願しているみたいだった。 「少しだけでいいので、お話ししてくれませんか」 気乗りはしないが、黙ってカウンターを跨いだ。の隣にしゃがんで、煙草に火をつける。 「ここは叔父の店なんです」 彼女がぽつぽつと語ったのは、よくある話。悪魔に両親を殺され、親戚に引き取られたはいいものの、良い環境とは言えない。叔父が留守の今日を狙われて強盗が入った。そんな話。 「もうここにはいられません。お金も、売り物も盗まれてしまった。叔父は、私に薬を売らせて生計を立てていたんです。帰ってきたら、きっとわたしを殺します」 の声は淡々としていた。私は箱から三本目の煙草を抜き出した。安いライターの火をつける。私を見つめるの瞳に、その小さな光が映った。私が来る前は泣いていたのだろう。 「実を言うと、毎回本当に煙草だけを買っていくのは、あなただけだったんです。それで、わたし、……」 もう何も言わないで欲しいと思った。もそれ以上、何も言わなかった。私はの顔が好きだった。それだけだった。 「お嬢さん、煙草はやめときな」 それから私が店を訪れることは二度となかった。だから結局彼女がどうなったかは知らない。知りたくもない。