「理解したいとは思う、本当に」 カフェの片隅。金髪のスーツ姿の男と、真っ白なワンピースの女。重苦しい空気。端からは浮気した男女の行き着いた先のようにも見えるかもしれない。しかしながら残念なことに私達は恋人でも何でもないのだ。 「聞いてる?」 不機嫌そうな彼女の声でやっと目を合わせた。全く聞いていなかったが、興味はないし訊き返しはしない。 不機嫌でいても彼女は美しい。美しいとは思うが、手は美しくないから価値はない。指輪を嵌めた、特別長くも短くもない平凡な人差し指。特別白くも黒くもない肌の色にそれなりに似合っている。何の感情も湧かない、世にごまんと存在する女の手。特別なことと言えば彼女は私の幼馴染かつ良き理解者だということくらいだ。だからこうして話していられる。 「聞いてる?ねぇ」 「……ン?」 私が何か別のことに想いを馳せていることに気づいたのか、は頬を膨らませた。もうお互い三十路なのだがその仕草は余りにも子供っぽく、苦笑してしまう。 子供っぽくて、我が儘な女だが、何故だか嫌いにはなれないのだ。現に、彼女は生きている。こういった静かな時間に、ある種の安らぎを感じている。喫茶店で彼女の一方通行な話を聞きながら考えことをする、ただそれだけの無益な時間に。話の内容に興味はなくとも、耳を通り抜ける彼女の凛とした声は決して不愉快ではなかった。だから今日も、ご機嫌を損ねてしまった償いに、彼女の好きそうな笑みを張り付ける。 「で、何の話だったかな?」 「これだから……」 は大袈裟な溜め息をつく。ほとんど中身の無くなった私のティーカップと、ほとんど中身の減っていないのそれを見て、私達の違いを考察してみる。彼女はまた、「聞いてるの?」。大きな瞳で睨まれ、渋々耳を傾ける。 「人間の幸福についての話だよ」 こういうところは嫌いだ。主語の大きな話。彼女はときどきこうした説教臭い話をしては、私をウンザリさせる。大概は聞き流すが、そうしているのがバレると、今のように彼女はまた最初から話し始め、私に意見を求めるのだ。 「あなたの幸福は、激しい喜びも深い絶望もない、植物の心の様な平穏な生活……だったっけ」 「ああ、……そうだな」 私が自分の信念に言及されることを嫌うのは、当然彼女も当然よく知っている。ただ今日は、それを承知の上で私に問うてみたいことがあるらしい。相変わらずよくわからない女だ。 「例えばの話、吉影に愛する人ができたとして」 「は?」 「例えばの話よ」 眉をひそめた。それでも彼女は下らない『仮定』の話を続ける。髪を弄る手が視界に五月蠅い。は一度顔を上げ、私が聞いていることを今一度確認してから話を始めた。 「彼女は勿論手が綺麗で、吉影が殺すのを躊躇うくらい大切な人だったとする。その人に『結婚してほしい』って言われたとして、それでも『激しい喜びはいらない』って言えるの?」 愛する人と結婚すること。想像もつかないが、世間一般からすれば、それは『激しい喜び』に分類されるものなのだろう。いつもならこんな下らない質問、戯れ言として無視してしまうことだってできた。だが今、お喋りなが、珍しく黙りこくって、私の答えを待っている。無理に想像した。自分が誰かを愛するようになって、その女にプロポーズされる場面を。それを受けた自分が彼女と結婚したあとのことを。 「私が『激しい喜び』を必要としないのは、それには『深い絶望』が付き物だからだ」 「へぇ……?」 「実際にが言うような展開になったとしても、それは例外ではないと思うが。結婚したあと彼女が死んだら、それは『深い絶望』だろう」 「……確かに、そうね」 の虹彩に映る自分を見る。折角答えてやったのに上の空で返事をした彼女は、今何を考えているのだろうか。わからないし、考えたこともない。興味もなければ、知る必要もない。彼女はただ私に『普通の人』に近い時間を与えてくれるだけでいい。それだけでいい。 「まあ、実際そんな状況になったら殺すだろうな。私自身にコントロール出来るものじゃないんだ、こういう衝動は」 「そうだろうね」 「それで、これは何の質問だ?」 「さぁ?」 窓の外に視線を逃したを、まじまじと眺める。二十代の頃に比べれば、確かに重ねた年月を感じさせる姿になったが、彼女は今も美しい。昔からこうではなかった。彼女が急に大人びて綺麗に見えるようになったのは、何時からだったか。昔の彼女はこんな表情はしなかった。何かを諦めたような、遠くを見ているような、そんな表情は。昔彼女は、天真爛漫なだけの女だった。変わらないのは、今も昔も手が私の好みじゃあないことだけ。彼女だけ生かしたのは、私がそれだけ彼女を信用していたからかもしれない。これからも同じだ。『信用』しているんだ、。 「君の幸福はどんなものなんだ」 私の問い掛けに、は口の端を少しだけ上げる。 「私の話、全然聞いてないのね。でもいい、教えてあげる。私の考える一番の幸福はね、『結婚』なの」 彼女は未だ独身だ。 その後、はおもむろに人差し指の指輪を外すと私の指に嵌めようとしたが、彼女の小さな指輪は私の指には嵌まらなかったとだけ言っておく。