strawberry mandae
忘れないように
 ドアの開閉音。
「ありゃ、こっそり入ったのに」
 机の上のノートを閉じる。「気付かない訳ないじゃん」と軽く返し、ちらっと、目線を落とした。新シン君の髪、あんまりにも綺麗なものだから、ギリギリ床には触れない長さだとわかっていても目で追ってしまう。毎朝三つ編みにしてあげられたらいいのだけど。
「何か用?明日の予定とか?」
「ああ、マスターに会うついでに明日の予定も確認しにきた」
「それ私に会いに来ただけじゃん……」
 新シン君は口先だけで笑うと、我が物顔で私のベッドに腰掛けた。否定しないの。明日の予定、明日の予定ね。新シン君が、子供みたいにぱたぱたさせてる足が気になって、浮かんで来ない。私はもう寝るところだった。下ろしっぱなしの髪とパジャマが居た堪れないと言ってる。
「それ日記?そのノート、それ」
「日記ではないけど、まあそんな感じ」
「へぇ」
 ノートの表紙を撫で、横目で彼を見る。「興味無い」なのか、「続きを話せ」なのか図りかねた。新シン君のこういう感じ、ちょっと苦手だ。正解か見えないことの方が多い。もっと親しくなれば、この距離感の意味もわかるのかな。現状、彼は私の勝手な『本心が読めないサーヴァント』ランキング上位だった。
「……見る?」
「ん、いいのぉ?」
「面白くはないと思うけど」
 ノートを手渡す前に彼は立ち上がって私の後ろから覗き込む姿勢を取る。え、何?捲れってこと?……もう。自分で見てくれたらいいのに。肩に触れた横髪を意識してしまう。近いんだよ。上半身を硬くしたままぱらぱらとページを繰る。ただの日本語の並びだ、つまんない、こんなの。
「何のメモ?」
「家族と親戚と友達の、フルネームと誕生日。覚えてるかなって」
「なるほど」
 やっぱり駄目だ、苦しい。押し付けるようにノートを渡して、ベッドに座ると、やっと息が出来るようになった。
 人間離れして美しいサーヴァントというのは何人かいて、彼もその一人で、息遣いや肌の温度がわかるくらい近くにいられると、私は呼吸の仕方も忘れてしまう。いつもいつも、慣れなくちゃ、と思うのに。今だってそうだ。新シン君が隣に座ると、私の身体は勝手に背筋を伸ばし、かかとを上げる。間、拳二つ分しか空いてない。
 ノートを見てるだけなんだから、気にするだけ無駄だと言い聞かせる。その間に彼が改めて開いたページは、偶然にも、彼が来る前私が書いていたところだった。
「この図は?」
「母方のおじいちゃんとおばあちゃんちの間取り……」
「ほお、よく覚えてんな」
「完璧じゃないよ。部屋の大きさとか絶対違うし、覚えてないとこもあって……」
 ふと我に返る。面白いかなぁこの話。もっと、好きな音楽の話とか、好きな場所の話とかあるのに。新シン君は対応がお兄さんっぽくて優しいから、ついついつまんないこと言ってしまって気を遣わせている気がする。
「そりゃ完璧は無理だ、建築家じゃないんだから」
「まあね」
 彼の瞳には柔らかな催促が浮かんでいた。興味持ってくれてるみたいだ。別に面白くない話だけど、いいか。何でもいいんだもん、沈黙しなければ。普段はもっとおしゃべりなんだよ私。まだちょっと緊張しちゃうだけ、新シン君相手だと。
「えっと、一箇所思い出せないところがあって」
 探して指差したところには、私の字で『お風呂』と書かれた正方形がある。その横の長方形はダイニング、そのまた隣がリビング、という風に続く。どこを読んでも字が汚くて嫌になる。新シン君にも同じように思われてませんように。
「ここね、間取りで言ったら、お風呂場はここなんだけど、ここで間違い無いんだけど……」
「確証が持てない?」
「そう。ディティールが思い出せないの」
 言いながらも不安になっていた。本当にここだったっけ?ドアがどんなだったか、脱衣所がどんなだったか、浴槽はどのくらい大きかったか、窓はあったか、……。全然思い出せない。てんで思い出せない。
「さっき思い出そうと考えてたんだけど、無理だった。大体私、おじいちゃんおばあちゃんちに数年行けてなかったんだよね」
「そんじゃあ、仕方ないんじゃないか?」
「うーん……そうかなぁ」
 それは、そうなんだけど。どうしてこんな返事しちゃうんだろう。変な間なんか空けずに、そうだねで済ませたらいいのに。そこで話は終わるのに。私聞いて欲しいのかな、本当は。
「なぁ、マスターは、なんでこんなの書いてるんだ?」
「あー……何というか、……」
 見つめてくる翠緑の瞳に現実味が無くてちょっと言いにくくなった。堪らなくて目を逸らしてしまう。普段は目を見て話す子なんだよ、私。
「普通に暮らしてたときのこと覚えておかないと、戻れない気がするんだよね。全部、元に戻ったとき」
 お行儀悪いな、と思いながら脚を組んだ。
 高校の校歌とか、元彼の誕生日とか、スタバのお気に入りの飲み物の名前とか、もう忘れちゃったことは沢山ある。そういうのは、もしかしたら、どう生きてもいつか忘れちゃってたことなのかもしれないけど、私は今カルデアにいて、人類最後のマスターとかいう大仰な看板を背負っている。怖かった。ここに書いたことも、そのうち、これを見ないと思い出せなくなったりするのなら、怖かった。カルデアのマスターからただの日本人女性に戻ったとき、『普通の生き方』を忘れちゃってたら、どうなるんだろう。って。
「人理修復に失敗する可能性を想定してないあたり、頼もしいねぇマスター」
「それは、だって……やるしかないよ。受験と一緒」
 受験と一緒。私の喩えにピンと来てないみたいで、新シン君は顔を傾ける。受験とか、もう二度としたくない。受かる以外に道は無いけど、受かるかどうかはわからない、あのプレッシャー……今その真っ只中にいるんだけどね。まあ、何とかなるはず。高校受験も大学受験も就活も乗り越えた私なら。
「まあ、人理修復したらお役御免でスパイ映画よろしく殺されるかもだけど」
「はは!あるかもな!」
「あったら困るよ……」
 本当にそんなことになったら、私のために一緒に戦ってくれるサーヴァントってどれくらいいるんだろう。「新シン君はどう?」とは聞けなかった。話の流れで。
「でもさぁマスター、アンタの家族のこと書くよりさ、俺とか、カルデアでのことを書いた方がいいんじゃないか?」
「……んー?サーヴァントについての記録なら、もう付けてるじゃん」
「いやいや、そういうんじゃなくて、それこそ日記みたいな、もっと個人的な記録の話さね」
「うぅん……?」
 今度は私がピンと来ない。返されたノートを机の上に戻し、脚を揃えて座り直した。やにわに横を向くと、彼の視線もちゃんと私を迎えてくれる。怖くないんだ、目を合わすことが。
「元の生活に戻ったらこんなの、幾らでも本人達に確認出来るだろ?でもサーヴァントってのは、いつか消えちまうもんだからさ」
 彼の視線、表情は、他愛も無い世間話をするときとそんなに違わなかった。それなのに、目線を外しちゃいけないと感じている。
 新シン君も、嫌な話をする。
 いつかいなくなっちゃうのに、いつか普通の生活に戻らなきゃいけないのに、記録して、ずっと大切に覚えていてね……なんて、ひどい。
 別れは避けられないもので、私は私なりに、バランスをとっているつもりだった。新シン君は、いつも飄々としていて、優しいのに、何処か遠くて、私と少し似ている。彼が自分からそんな提案をするなんて、正直意外だった。
「……確かにそうだね」
「だろぉ?」
 新シン君は、目を細めて笑う。私、彼がいなくなるとき、こんな風に笑いかけられたら嫌だと思ってしまった。そのときが来るまでには、もっと親しくなっていたい。気遣うように笑ったりしなくていい関係になっていたい。
 こんなことを思うから、親しくなり過ぎないように、してるのに。
「んじゃ、満足したので俺は帰る。マスターは早く寝るんだぞ」
「え、もう?本当に私と話しにきただけだったんだ」
「最初にそう言っただろ?……ってアレ?言ってない?」
「わかんない、言ってたかも」
 先に立ち上がった新シン君が私に向けて手を差し出す。おずおずと握ると、引っ張って立ちあがる手伝いをしてくれた。一人でも立てるよ。彼は世話焼きというか、私のこと子供だと思ってるんじゃなかろうか。違う?
「ねぇ、今度は新シン君のこと教えてね。このノートにも、ちゃんと書くから」
「え?……ん、ああ」
 曖昧な笑い方だった。もしかして、私の話を聞いてくれたのは、自分の話をしたくないからだったのかもしれない。私はまだ彼のこと、真名すら知らないのだ。新シン君のことを教えて、なんて、困らせるようなことを言っちゃったなぁ。
「あ!」
 思ってた以上に大きな声が出ていた。出て行こうとしていた新シン君が振り返る。
「さっきの話なんだけど、一個思い出した。お風呂場の壁のタイルに、花の絵があった……何の花かは、わかんないけど……」
 こんな、こんな。大声出して引き止めて言うようなことじゃなかったのに。尻すぼみになる声を気にせず、新シン君はいつものように私に微笑みかけた。
「思い出せて良かったな」
「……うん。引き止めてごめん、おやすみ」
「いーよいーよ。おやすみ、マスター」
 ひらひら手を振る彼を見送った後、電気を消して、ベッドに横になった。丁度十一時だった。
 眠くはなくて、普段は感じないのに、今日はなんだか寒いような気がした。皆と別れるときが来るとしたら、どのくらい先の話だろう。
 私はたった一晩、数時間の別れでも嫌なのに、永遠の別れなんて考えたくもないよ。新シン君も、なんで思い出させるかなぁ。ああいやだ、早く眠くなってしまえっ。他人にするみたいに、自分の身体を抱き締めた。そのうち眠くなる、きっと。